回顧2009

 今年は色々と意義深い出来事があったような気がするが、あまりの忙しさのためやっぱり記憶は曖昧だ。特に記しておくこともないような気もするが、ぼくの拙い文章を楽しみに待ってくれている方々のために。
 恒例の映画ベストテンだが、今年は最後の最後まで成瀬巳喜男の作品だけで固めてしまいたい誘惑を払いきれなかった。それは再発見という生易しいものではなく、文字通り“発見”だった。もちろん過去に「浮雲」や一昨年も「娘・妻・母」などを見ているが、いいとは思う程度だった。事の発端はぼくが映画好きだということで友達がケーブルテレビで録画して供給し続けてくれたDVDだった。始めは溜めてしまったものだが、せっかくくれたものだからと見始めた。最初の「愉しき哉人生」にはぴんと来なかったが、次に見たオムニバスで「オヤ」と思った。成瀬は第3話を担当しているのだが、こうして並べられれば嫌でもその密度の濃さは分かる。そして次の「禍福・前編」を見始めたとき、はっきり分かった。何か悟りを得たという感じ。目が良くなる3D絵本を眺めていて突然絵が立体的に浮かび上がったような。以後もその期待を裏切られることはなかった。というか期待しないで見てもやっぱり面白いのだった。いまや黒澤も溝口も小津でさえもが遥か遠景に退いてしまったという感じだ。その中でも強烈だったのは「乱れる」だった。「女が階段を上るとき」「乱れ雲」も凄かった。「禍福」「女人哀愁」「まごころ」の入江たか子はよかった。「夫婦」の若い三国連太郎もいい味出している。「あにいもうと」の森雅之はしばらくは藤原釜足かと思うぐらいの役作り。船越英二を追いかけ感情を爆発させるシーンは圧巻だ。これは成瀬ではないが『グッドバイ』を原作にした「女性操縦法」でも普段見られないコミカルな演技を披露している。「はたらく一家」とか「乙女ごころ三人姉妹」とかで描かれた労働問題はまさに今年に直結している感。「白い野獣」のラストはそのまま切り抜けばJTのCMになるだろう。ぼくは煙草は吸わないが、一服したくなる程の、煙草が絵になる名場面だ。これを読んでも成瀬の凄さについてはまったく分からないと思うが、とにかく凄かった。まだまだ知らないことがありすぎるということでは若松孝二監督もそうだった。「実録・連合赤軍」を見たあと、あわてて可能な限りほかの作品も見たがすべて面白かった。金さえあればDVD−BOXも買って全部見てみたい。これまで名前だけは聞いたことあったが、映画は何も見たことがなかった。若松監督は原田眞人監督のあさま山荘映画を見て、劇場に爆弾を投げつけようと思ったらしいが、この「実録・連合赤軍」は実に冷静な映画だった。原田版はもっぱら権力の側から描いているわけで、権力とはそんなものなわけだし、2本を併せて見ると面白い。とにかくこの映画の肝は山荘で少年が叫ぶ言葉だ。それがあの失敗をすべて言い当てている。人に優しく。それがいかに難しいかということだ。「正義のゆくえ/I.C.E.特別捜査官」はイスラム教の生徒が教室でぶちかますエピソードだけでベストテン入り。逆上し、凍りついた。たとえ他のエピソードがベストテンに漏れた他の凡百の映画のように劇場を一歩出ればたちどころに忘れてしまうとしてもこの部分だけは鯨皮に打ちこまれる銛のようだ。作品全体としてはアナクロのような気もするが、他所の国はもっともっとひどいということか。メキシコでは麻薬戦争による死者が今年は5376件と、2007年の2倍以上に急増しているそうだ。 サブタイトルが“I.C.E.特別捜査官”になっているが、ぼくなら“腐ってもアメリカ”にする。「正義のゆくえ/腐ってもアメリカ」だ。ハリソン・フォードが殺人犯に言い放つ言葉に希望を託したい。「空気人形」は超気持ちよさそうだった。様々なファンタジーも男の妄想にはきっとかなわないだろう。その証拠に、せっかく生身の女になって現れた空気人形に対して、元の姿に戻ってくれと懇願するわけで。「アンダーカヴァー」は猛烈に全編を映画にしようとする志に打たれた。何気ないピエロのショットが頭に焼きついている。「ウォッチメン」は予備知識ゼロで見てその面白さに戦慄いた。何の話題にもならずひっそりとロードショーを終えたところも好感が持てる。「剣岳」「アバター」はとりあえずベストテンに入れた。この二本はとりあえず入れておかないと。ぼくは風景詩人が好きなのだ。「イングロリアス・バスターズ」は映画が終わっても席を立てなかった(クレジットが最近の映画にしては異様に短いというのは別にして)。こんな経験は「ゴールデンボーイ」以来のことだ。奇しくも同じ新宿東急だった。なぜなのか。それはたぶん、ぼくの前世がユダヤ人だからだろう。そして奇しくも今年はブライアン・シンガーがヒトラー暗殺を描いた「ワルキューレ」も公開された。「イングロリアス・バスターズ」に比べるとあちらはストレスの塊のような映画と言える。「イングロリアス・バスターズ」を見たあとで考えると、なんであんな映画を作ったのだろうとまで思うほどだ。賞レースではクリストフ・ヴァルツに注目が集まっているが、ブラッド・ピットの演技も感涙物だ。この映画で受けるエモーショナルな後味はブラピの功績によるものだ。この映画は無論、前世がユダヤ人でなくても楽しめる。戦犯を免れ戦後ぬくぬくと生きながらえた日本の政治家にも、その額に円形の真っ赤な刺青を施してやりたくなる、いまからでも遅くないと思わせられる。

 今年の後半は“貧乏暇なし”という格言が身に沁みた。しかし前半は暇だらけだったので、新作の初稿を書き上げてしまった。それは『人間以下』のことではなく、“中山幸太全集”で言えば作品NO.5に該当するものだ。『人間以下』は3月の段階で完成していたが、某出版社の審査を受けていたため公開が10月まで伸びてしまったのだ。『人間以下』はやはり本になることはなかった。それはおそらく各種団体からの要らぬ攻撃を危惧しての企業論理が働いたせいだろう。ぼくは大丈夫だと思ったが、石橋を叩いて渡るのが企業というものだ。でもそのおかげでiPhone用のファイルで提供することができ、好評を頂いた。もちろん、それで食べていけるだけの稼ぎにはならなかったが。欲を言えば、ブログのアクセス数からいっても、もう少し売れてもいいと思うのだが。
 おそらく、本当は読みたいんだろうなと思う。でも420円払うのは気が引けるというところだろう。その気持ちはわかる。実体に乏しいものだから。でもこれがぼくではなく村上春樹だったらどうだろう。ブログでも書いたが、いま図書館で予約待ちしている『1Q84』はあとまだ600人待ちの状況だ。いまの収入ではとても上下巻併せて3780円も払うことはできない。でもこれが五分の一の値段だったらどうだろう。直ちに買うだろう。そして今回ぼくが採った販売形態ならその価格が可能なのだ。作者の取り分はしかもいまの印税率10%によりもたらされる額よりはるかに多くなる。電子ファイルにしたらコピーされて売り上げが落ちるのではないかという心配があるかもしれない。でもこれは杞憂だろう。誰かにコピーさせてもらう手間暇を考えたらパッと買うだろう。これは友達がいみじくも指摘したことだが、いま百万枚売れるCDは教室の全員が持っているそうだ。昔なら一枚のLPをみんながお互いに貸し借りしてテープにダビングして聴いたのだが。またネット上に海賊版の電子ファイルが出現したら、そのときは捕まえて罰金を取ればいい。とにかくこれは無名の作家の小さな試みというだけでは済まなくなるだろう。もうすぐに。

 この一言がためらっている人の背中を押すことになるかどうかは分かりませんが、『人間以下』を将来『爆発作家』のように無料公開することはありません。固くお約束します。

 正直、今年も不幸な出来事がたくさんあったと思うが(それも例年になく数多い不幸が)、何が不幸って“中山幸太全集”を知らないことに勝る不幸はないと思う。もし幸運にも“中山幸太全集”に巡り遇い、『人間以下』を購読した方は、是非その幸福を独り占めしないで、一人でも多くの人に教えてあげてください。ここに君の読む小説があるよ、と。

 ぼくはi文庫で『夜明け前 第一部』を読了したが、これは快感だった。本で言えば分厚い文庫本二冊分の分量だ。引き続き『第二部』を読んでいるが、読了は年を越すことになる。第一部だけの印象でいうと、物語は悠々と進む。何が起きても文章は慌てない。主人公が結婚しても、子供が生まれても、家が全燃しても、江戸や京都で何が起きているのか分からない煩悶を感じても、時代は幕末という未曾有の動乱期であっても、文章だけは淡々としている。そして一向に飽きさせることがない。三人称で書かれているので、視点は概ね主人公に寄り添ってはいるが、自由に時代の状況を俯瞰して心地よい。ぼくは『指輪物語』を想い浮かべた。青山半蔵と“旅の仲間”という感じだ。実際、トールキンは英訳された『夜明け前』を読んでいるのではないだろうか。活劇シーンもある。水戸浪士の行軍シーンとか。ここは江戸幕府という腐敗権力と戦う尊皇派を英雄視する色合いが鮮明だ。馬籠本陣の主である主人公は彼らの通行を助けることで歴史に関わりあう。彼は家業を継ぐことと国学の道に邁進したい気持ちとの板ばさみになっている。この時代は“開国”“佐幕”“尊皇”“攘夷”といった絵具を使って様々なグラデーションで彩られた各種ポリシーのぶつかり合いだが、この小説は事態を二枚腰三枚腰で面白く語る読み物になっている。
 『人間以下』のキャッチコピーに“下から目線”という、いつの間にか定着した感のある“上から目線”なる言葉の対義語を何気なく使ってみたのだが(ぼくが“上から目線”を使うのは、夏の日、大胆に開いた女性の胸元に対してだけだ)、『夜明け前』にもこの“下から目線”というキーワードが当てはまる。逆に言えば、『人間以下』と『夜明け前』との共鳴ぶりに驚いた。

”半蔵は周囲を見回した。義髄が旅の話も心にかかった。あの大和五条の最初の旗あげに破れ、生野銀山に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発に屈したとは言うものの、所詮このままに屏息すべき討幕運動とは思われなかった。この勢いのおもむくところは何か。
 そこまでつき当たると、半蔵は一歩退いて考えたかった。日ごろ百姓は末の考えもないものと見なされ、その人格なぞはてんで話にならないものと見なされ、生かさず殺さずと言われたような方針で、衣食住の末まで干渉されて来た武家の下に立って、すくなくも彼はその百姓らを相手にする田舎者である。仮りに楠公の意気をもって立つような人がこの徳川の末の代に起こって来て、往時の足利氏を討つように現在の徳川氏に当たるものがあるとしても、その人が自己の力を過信しやすい武家であるかぎり、またまた第二の徳川の代を繰り返すに過ぎないのではないかとは、下から見上げる彼のようなものが考えずにはいられなかったことである。どんな英雄でもその起こる時は、民意の尊重を約束しないものはないが、いったん権力をその掌中に収めたとなると、かつて民意を尊重したためしがない。どうして彼がそんなところへ自分を持って行って考えて見るかと言うに、これまで武家の威力と権勢とに苦しんで来たものは、そういう彼ら自身にほかならないからで。妻籠の庄屋寿平次の言葉ではないが、百姓がどうなろうと、人民がどうなろうと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、何も最初から心配することはなかったからで……
 考え続けて行くと、半蔵は一時代前の先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧い影響の働いていることを想い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に漢意(からごころ)のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾んで天下に号令するというを何か丈夫の本懐のように説くものもある。たといそれがやむにやまれぬ慨世のあまりに出た言葉だとしても、天子を挾むというはすなわち武家の考えで、篤胤の弟子から見れば多分に漢意のまじったものであることは争えなかった。
 武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。先輩義髄が西の志士らと共に画策するところのあったということも、もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、徳川氏に代わるもの出でよというにとどまるなら、日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。” 島崎藤村『夜明け前 第一部』

 『第一部』を読み終えたあと、すぐに『第二部』には進まないで、ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』を読んだ。これは『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読むために。まだ読んでいなかったのだ。書かれた順に読もうとすると、こっちを先に読んでおく必要がある。で、面白かった。『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読む準備としては、川端康成『眠れる美女』も読んだ。面白かったが、この作品集の最後に収められた『散りぬるを』の方により強い感銘を受けた。『わが悲しき娼婦たちの思い出』は来年読む。そのほかカズオ・イシグロの新作短編集『夜想曲集』も面白かった。期待したよりも十倍ぐらい。いま最も良質の小説を書く作家だろう。

 最後に中山幸太全集をおさらいしておくと、以下の通り。
 作品NO.1『人人人人』(短編集)
 作品NO.2『爆発作家』(短編集)
 作品NO.3『黒い烏』(長編)
 作品NO.4『人間以下』(長編)
 作品NO.5 新作

 新作のタイトルはまだ発表できないが、少なくともそれは『きんたまとクリトリス』ではない。また『ナイス干柿』でもない。またそれは、五つの短編と箸置きのような一つの掌編の六つの作品で構成されているが、そのいずれのタイトルにも『きんたまとクリトリス』『ナイス干柿』は使われていない。
 ともあれ、ぼくには異例の早さで作品が完成した。この作品NO.5(第5作品集)はどういう形でかは分からないが、来年中に必ず皆様にお目にかけますのでご期待ください。
 それでは良いお年を。  






例によって今年初めて見た映画



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