回顧2005



 今年もまた何事もなく過ぎ去っていったという一年だった。
 やはりぼくの場合、作品が発表されて初めて何かやったという手応えが生まれるのだろう。
 今年は井上ひさしの年だった。だが、それに気づいたのは夏も盛りを過ぎてからだった。
 まず、春先にボローニャ紀行を見た。そのときチャップリン・プロジェクトというのが進行中であることを知った。フィルムの大規模な補修作業だ。4月にWOWOWでチャップリン特集をやったが、それがこのプロジェクトの賜物なのかはわからない。が、ハイビジョンで全部見た。そして、至福の時間を過ごした。チャップリンもまた見たつもりになって見ていなかった。
 ボローニャ紀行のしばらく後で週刊ブックレビューに突然現れたので話を聞いた。テーマは原爆反対についてだったが、そこまで思いつめているかという驚きがあった。
 9月の初めに駒沢大学駅前の本屋でシアターガイドという雑誌の表紙に和田誠のイラストが描かれていたので手に取った。この雑誌は演劇専門のぴあというところだろうか。それで今年は井上ひさしの年であることに気づいたわけだ。
 十五年前、筒井康隆の著作は99%、大江健三郎のは90%以上読んでいたが、井上ひさしの小説は60%ぐらいしか読んでいなかったと思う。「吉里吉里人」「ブンとフン」「下駄の上の卵」など最高に面白かったが(とくに「ブンとフン」はオールタイムベストテンに入る作品だ。今年は40になったので、いずれこれまでに感銘を受けた作品を十代ごとに区切って10作ずつリストアップする試みもしてみたいと思っている)、なぜか全部読もうという意欲が起きなかった。きっと文章の屈折が物足りなかったからだと思う(村上春樹の小説も同じ理由で読めなかった)。戯曲は一冊も読んだことがなかった。ただNHKの芸術劇場か何かで見た「頭痛肩こり樋口一葉」「きらめく星座」「雪やこんこん」などに感動したのでこまつ座の公演に行こうとチケットを買おうとしたら全然取れず、そのうち忘れていったのだろう。たぶん新作が多かったということもその状況に拍車をかけていただろう(最近の再演ではその当時ほどチケット入手は困難ではないようだ)。ただテレビの舞台中継は気がつけば録画していたので、今年はそれを集中的に見た。といっても「イーハトーボの劇列車」「たいこどんどん」「人間合格」「シャンハイムーン」「連鎖街のひとびと」の5本だが。駒大駅そばのブックオフや国分寺の古本屋なんかで文庫本をありったけ買い集めたがこれはまだ読んでない。その中には戯曲もあるが、読んでいない。やはりその真価は舞台にあるような気がする。舞台にあって戯曲にないものはたくさんあるが、最大なのは音楽だ。こまつ座の魅力のひとつは、宇野誠一郎の音楽で、ルーカスやスピルバーグのジョン・ウィリアムスのように切り離せない。もちろん歌詞の面白さはいうまでもないが。そういった意味では「たいこどんどん」は最高だった。井上ひさしの芝居は作家・物書きを主人公にしたものが多い。それでいて多くの観客を集める。これは作家も神ではない苦労や悩みのある一人の人間なんだという視点と、もうひとつは逆に、人間にはみんなできれば作家・物書きになりたいという普遍的な希望があるからだろう。早い話、小説なんか一冊も読んだことがない人間でも作家という言葉への憧れ、イメージを抱いているものだ。今年、紀伊国屋サザンシアターで見た「小林一茶」も、そのテーマは遊俳と業俳だった。作者が肩を持つのは何といっても業俳と農民だ。それと江戸への憧れと嫌悪。今年劇場に足を運んだ井上ひさしの芝居はこれだけだ。「天保十二年のシェイクスピア」は新宿の金券屋を覗くと1万2千円の席が4万円とかしていて諦めたが、年末にWOWOWで放映されたので見た。これはこまつ座ではなく蜷川幸雄の芝居だった。シェイクスピアは、見れば(読めば)必ず面白いとわかっていながら手に取るまでが億劫で、読み始めにも軌道に乗るまで多少の気合を要する作品という感じなので、「天保十二年」もちょっと身構えたが、それは幕開けと同時に不要なことがわかった。宇崎竜童の音楽も楽しかった。
 そんなわけで、今年は井上ひさしの年だと思っていたら、秋も深まった頃、武豊の馬のように猛然とスパートをかけてくる作家がいた。
 「さようなら、私の本よ!」というのが出たのも、それが三部作の悼尾を飾る小説であることも知らなかった。その三部作の第一作が五年ぐらい前に出ていたらしいことも。たしか大江健三郎はノーベル賞を受賞する頃書いていた「燃え上がる緑の木」が最後の小説だったはずだ。それがその後も色々書いて(「最後の小説」というタイトルを含め)、まるで「さらば」とか「永久に」とかつけて何度も蘇った宇宙戦艦ヤマトだ。
 燃え上がる緑の木・三部作は読んでいない。大江を読んでいたのはそれ以前までだ。で、今回、久しぶりにこの三部作を読んで、実に面白く、小説というものに至福の時間を過ごした。ノーベル賞をもらって一皮剥けたという印象だ。ぼくの友達も「宙返り」は読み始めたけどしんどくて、途中でやめてしまったが、この三部作は楽しく読めたそうだ。皮が剥けるまでにはなかなか時間がかかるものだ。この三部作を読んでやはり大江がノーベル賞をもらった意味があったと思った。「取り替え子」では義兄について、この国の暴力のシステムについて、“アレ”についてが語られる。テレビ番組誌を眺めていたら、今度、「たけしの誰でもピカソ」に大江一家が取り上げられるようだが、なぜ出演を引き受けたのか。この作品で“コメディアン出身の監督”のコメントに品性を疑っているのだが。もっともぼくが勝手に最近読んだだけで、本は五年以上前に書かれたものだから。「憂い顔の童子」は舞台を四国の森に移し、いろいろユーモラスなエピソードが語られるのだが、“アレ”の核心について読者はきっと予想外の意味を与えられることになる。ただ、第一作のときも、肩透かしや違和感はあまり感じなかったのではないか。これが偉大な作家の感受性の幅というものだとか納得させて。ところがこの巻ではそれを覆すというほどではないが死角を衝くような形でそれが補われるわけだ。そして最高に爆笑したのがいきなり図星を衝くようにここらの“読み”を開陳する“加藤典洋”の登場だ。それまで石原慎太郎や江藤淳の名前はあからさまな仮名に改められていたのがここで本名が飛び出す衝撃。しかしながら一皮剥けて大きくなった作家は図星を衝かれ「クソどもが!」と罵りながらもそれを小説に取り込んでしまうしたたかさを見せる。そして「さようなら、私の本よ!」である。主な舞台は北軽井沢で、成城の自宅を何度か往復する。一般的な感想としては、このような形でテロを肯定できる作家は大江健三郎しかいないということだ。六本木ヒルズに思われる高層ビルを爆破する計画を友人の建築家が語るところは鳥肌が立った。周りの音は消えて、手のひらにじっとりと汗をかいていた。その内容に、話の持って行きかたに。個人的な感想をいえば、ある登場人物の名前がぼくの新しいペンネームと同じ姓だったという偶然の一致に驚いた。大江健三郎の小説に出てくる人物の名前はフェリーニの映画の登場人物の顔に等しい。それは読み手(観客)に強い印象を与える並ではない名前(顔)だ。ぼくはそのペンネームを記したとき実家の庭を思い浮かべていたのだが、大江健三郎も家の庭を眺めていて思いついたのかもしれない。ぼくは大江健三郎の家に一度だけ行ったことがある。二十年前のことだ。成城学園前駅には学生時代よく途中下車していた。成城図書館でぼくの知る限りそこにしか揃っていないセリーヌとイヨネスコの全集を借りるために。返却が一日でも遅れると電話がかかってくる厳しい図書館だった。だが成城の住宅街の奥深くに踏み込むのはそれが初めてだった。それで紆余曲折の末に自宅の前に立ったのだが、感情やここにいる理由を整理することなどできなかった。最大の原因は持参した原稿に何ら自信がないことだった。呼び鈴を押すと奥さんが出てきた。それで 作家の在宅を訊ねると、いま書斎で仕事中なので会えない、原稿を直接読むことはしないが出版社に紹介はしてくれるということを親切に話してくれたのでお礼を言って帰ってきた。もちろん原稿は預けなかった。そのときの緊張というか異様な恐怖というか不安というかは後にも先にもない。この三部作は長年の大江ファンにはたまらない魅力を備えていた。過去の作品のタイトルがやはりあからさまというかベタな変形を受けて大挙登場する。
 4月、フリーパスを買って電車、ケーブルカー、ロープウェイ、海賊船、バスと乗り継ぎ箱根を巡り、湯河原に泊まる。また、十八年ぶりぐらいで静岡県よりも西に出る。スターウォーズ展の券をもらったので名古屋へ遊びに行ったのだが、万博には行かなかった。
 8月は伊豆へ念願の海水浴へ。天気予報では曇りなのに浜辺に行くと必ず晴れ渡った。二日間とも。
 自殺者が年間3万人というのは日本の人口が1億2千万という数字同様標準化している。
 ここまで生きてくると生きることより死ぬことのほうがはるかに楽だと確かに実感できる。覚悟を決めて、ほんのちょっとの間、肉体的苦痛を我慢すればいいだけだから。それも工夫すれば苦痛も回避できるだろう。
 アレクサンダー・ペイン監督「サイドウェイ」から今年一番印象に残ったセリフ。「無名すぎて自殺も出来ない」。
 「クラム」の衝撃はやはりドキュメンタリーと劇映画は違うということをはっきり証明している。
 「アララトの聖母」の衝撃は劇映画という表現手段でしか起こせない。これは南京大虐殺問題にそのまま置き換えられる。アルメニア人を南京市民に、トルコ政府を日本政府に。
 伊丹十三の映画は「大病人」以外すべて当時ロードショーで見ているが、年末にWOWOWでやった「静かな生活」を見るつもりはなく見始めて結局最後まで見てしまった。
 今年の映画を一言で表すと、“復讐”ということになるだろう。パク・チャヌク監督の復讐三部作、「スターウォーズVシスの復讐」、そしてジム・キャリーの「ディック&ジェーン 復讐は最高」。
 復讐三部作の中では最初の奴が一番よかった。他のも映画としてすごく面白かったし力があったが、首尾結構が整っていたように思う。つまりこの異様な物語が最初から最後までほぼ完璧に物語られていた。しかも極めつけの一枚がこの評価を決定的なものにした。一枚というのは犯人が描いたある絵画のことだが。この絵がもたらす絶妙のユーモア、一拍の後で爆笑を生む完璧な仕掛けには脱帽せざるを得ない。計算ではなく奇跡が働いたとしか思えない。他の二本は動機が弱かった。動機が余計というか。それなしでものすごい力のある作品だった。動機さえなければこの二つもベストテンだった。そんなわけで「JSA」は今年始めて見たのだが、「シュリ」とは違って韓国映画のイメージを一気に高める中身だった。
 「スターウォーズ」の終章は期待を上回る語り口でやはり他の作品と一つ一つ照らし合わせてみても個人的には一位にならざるを得なかった。ここにも奇跡的な一瞬があった。それはこのサーガのへそ、宇宙の命運を決する数秒だった。物語の、全宇宙の運命がこのように鮮明な描写で語られたことにやはり脱帽するしかなかった。クローン軍の圧倒的な力の前にジェダイと共和国が敗れたのではなく、一瞬の判断、選択によって崩壊したというその表現が見事だった。くどいようだが。また夫婦喧嘩の危うさも全銀河を背景にしながら普遍的なものとしてよく描かれていた。また火山の星で皆殺しにした後アナキンが寝言のように言うセリフもわけがわからなくなってしまった頭の中を見事に表現するものだった。



2005年の映画ベストテン

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